◎分かっても分からんででも、おかげ頂く。分かって行じれば、尚更有難い。それが金光教の信心で言うところの御理解。それを聞いて分かって行じて行く所に、良い信心が育ってくるのである。そこには教師もなからなければ信者もない。
%1熊本地区の青年教師信心実習会
%2高瀬弘子先生の驚き。
%3耳の聞こえない荒木さんという修行生がいた。
昭和四十三年二月十七日 夜の御理解
%1今日、熊本の日奈久教会の富永先生が、二月の御礼に出て見えました。一生懸命の御信心が出来ておられますが、例のお届けの中に、先日から、熊本地区の青年教師の信心実習会がございました。信心実習会でございます。それに出席さして頂いてから、話の中心になりますものが、どういう事であろうかと言うと。
%1取次者としての姿勢、ね。金光様の先生としての、お取次をさして頂く者の姿勢と言うのは、どうあらねばならないかと言う事に終始したらしいですね。どうすれば信者が助かるか。どうすれば、「人が沢山集まって来て、信心の稽古をする様になるか」という事が、今、話の中心になったらしいんです。まあ、色々な話が出たんですけど。
%1最後にある教会の、もうこの頃から、その親先生という方が亡くなられ、若い女の先生が、現在の教会長である。いわゆる青年教師である。その方がいよいよ発表されましたのに、いよいよ明日、青年教師の信心実習会がある。取次者の姿勢と言った様な事が、まあテーマになるのですが。
%1どういう様な、その、まあ心掛けとか、気持ちでおったら良いでしょうかと言う事を、神様に、前の晩に一生懸命お願いをしてやすまれたら、朝方のお夢に、先生が頂かれたお夢を発表されたそうですね。
%1『そのお夢の中にですね。三代金光様と亡くなられた、その親先生が出て見えられましてね。「取次者の先生自身が、信心を頂いておらんから助からん」と言われました。それを横の金光様が実証をなさる様に、まあ御態度をお取りになった。親先生がね、「取次者その者の信心が出来なくて、信者が助かるもんか」と言う意味なんです。
%1それを金光様がですね、横で実証する様に、一緒においでられたと言うお夢を頂かれた。その発表をなさったそうです。そいで、折角、そこにそうだと、確かにそうだ。「取次者自身が信心を頂かなければならないのだ」と言う事を、まあ結論したと言った様な話を、なさっておられましたけれどもですね。
それなら、果たして、信心というのはどういう。教師その者が、信心を頂かなければならない。先生自身が、信心を頂かなければならないと言う信心とは。どういう信心なのか。そんなに完璧と言った様な、金光様の先生だからというて、完璧な者はおりませんけれども。但し、やはり完璧な者を目指さなければならない。ね。生神金光大神を目指さなければならない。
金光大神の境地を目指しての、やはり信心であり。そこに精進がなされる時にです、そういう前向きの姿勢とでも申しましょうか。そういう姿勢に神様はおかげを見せても下さり。取次者の顔も、また立てて下さる様なおかげにもなってくるんだという事を、まあ話ておられるんですがね。
只私、ここを下がりましてから、四時の月次祭でございましたから、関さん達の車でお参りさしてもらって、帰って参りましたら。丁度、弘子先生とそこで二、三人、全部で、お話をしておる所へ帰って参りました。弘子先生がどういう事を話ておるかと言うとですねえ。もう兎に角、ここに参りましてから、ここに参りますと言うよりも、参ります以前からでございますけれども。ね。
%2兎に角、教祖のみ教えの深さと言うものをですね。もう教えて頂くという事に於ては、もう類を見ないだろう。弘子先生自身が一年間、本部へ教師の資格を取る為に、修行さして頂いて、あちらの偉い先生という偉い先生の話は、もう皆頂いた。もうこれが御理解をする為の決定版とまで言われるくらいな、高橋茂久平先生の御理解集なんていうものは大変なものである。
%2高橋正雄先生のお父様ですね。ところがです。あの椛目の御理解集を読ませて頂いておったら、また頂いておったです。高橋茂久平先生の、その御理解がですね、薄い浅いものになってしまう。ですから、本当言うたら、「合楽の、ここの御理解はですね。本当に取次者であります金光様の先生が、頂かなければならないみ教えですもんね。御理解ですもんね、毎日が」と言うて話をしておる所へ、私の方が聞かせてもらってから、私もそう思うんです。
ですから、皆さんの場合はです、本当に、そんなら取次者だからと言うて、信者だからと言うて区別があって良かろうはずがない。私の考えはそうなんだ。ですから、ここでは、いうならば金光様の先生でも成られる。本気で、成られると言うかね、本当にお徳が受けられる。力が受けられる。
%2人が取次助けられるくらいなですね。お徳の頂けれる、信心の頂けれる。例えば、深さと言うか、広さと言うか、または御理解の妙と言う事を弘子先生は言っておりますが、その御理解の妙と言うですかね。もうここに触れて行く時に、椛目の御理解に、もう魅せられん訳にはいけん。魅せられてしまう。
「富永先生ここですもんね」と言う様な意味の事を、富永先生とお話しておるんですよ。私、その横から聞かせて頂いてから、そうだなあ。だから、ここでは素人にする話、玄人にする話。今日も福岡の田舎の在の方から参ってまいります方なんですけれども。これは他所の教会で、相当信心を長くした人なんですけれどもね。月に何回か、松尾さん、松尾さんという方が参ってまいりました。
御理解を頂いて帰るんですね。そして、いつも思うんです。ここの御理解は見易う、見易う説いてある。ところが実際は、その難しさに驚いてしまいます。分からんち。話ておられる事は分かるけれども、どういう意味かが分からない。なる程、ほんにそうだなあ。そりゃ皆さんは、もし分からんなら、分からんなりに、まあ御理解を頂き付けると言うかね。
合楽の御理解は頂き付けますと、段々、段々分かってくるんですよね。ですから、あのそういう、例えば、深さを持った御理解なのですから、その御理解の深さを自分の信心によって、その実証して行くという事が、信心が身に付いて行く事である。ね。
例えば、熊本の若い先生方はです、兎に角、取次者自身が力を受ける事だ。信心を本当に頂く事だと言う、力を受けるとか、信心を受けるという事はですね。その御理解の芯を分かり、御理解の浅い所だけじゃつまらん。御理解のいよいよ本当な、教祖様が教えておられますそのみ教えの奥の奥と言った様なもの。ね。
その奥の所を分からせて頂くと同時に、それを修行の上に現わして、それを実証して行く、自分が日々。そこからいよいよ信じる力も生まれてくるであろう。良い信心が、必ず育って行く。そこに取次をさしてもらう。人が助かるという働きになってくるのである。ね。
丁度、そんなお話をして頂いておる時に、 見えてから。その時分でしたが、田主丸から植木屋さんですけども、ちょっと兄弟共、頭がおかしんですね。兄さんの方は嫁どりになって帰って来て、どうも頭の方がおかしい。弟さんの方も、どうも嫁さんが貰えんと言うて、まあ、だだをこねられると言った様な感じの人ですから、年はやがて三十でしょう。ね。
それで、お母さんを初め、四、五人の者が、あそこで御理解を頂いておりましたから、頂かれるんですけども。立ったり下がったり、立ったり下がったりして、御理解を頂こうとしないんですよ。それで、またここに出て参りましたから、「どうして、あんた御理解を頂かんとね」と言ったら、僕じゃ分からん。あげな話は。
%3「そりゃまあ、あんたが分からんなら、お母さんも分からんよ」とお母さんも言いよんなさいました。ばってん、何とはなしに有難い。だから、「私は分かっても、分からんでも言い」と言いよってですね。荒木さんの話を致しました。ここにはね、昔、荒木さんというて、修行生が全然耳が分からない。
%3けども荒木さんは、私の話を頂きよりますとですね。一生懸命先生の顔を、一生懸命見てお話を頂きよるんです。そして、よーく合点して頂くんですよ。この人は分かりよるじゃろうかと思うぐらいに、その合点して頂く。そして段々、段々ですね、御理解佳境に入って来ますとです、目に涙を一杯溜めて頷くんですよ。
%3いや、信心の御理解が、いよいよ有難いという事になってくるとですね。涙を溜めてから聞くんです。ね。それで例えば、さしもの、あゝいう病気がおかげ頂くと言う様なおかげになって来た。ですから、耳に入らなくても、例えば、その雰囲気だけでも、御理解というものは頂かなければならないと言う事が分かります。
今日は、少年少女会の方達が一杯集まっておりますけども。分からない事が沢山あろうと思う。けれども御祈念をする雰囲気とか、こうしてここでお話を頂かして貰う、その雰囲気だけでもいいのである。それは耳はいらんでもいいのである。眠っとってもいいのである。ね。
その御理解の一つの働きというか、御理解の力というか、ね。そういう力がですね、御理解の中にある。話を聞いて助かるというのだ。話を聞いて分からなければと言う事でなくて、話を頂いておるだけでも助かられるのだ。だから、あんたそげん立ったり座ったりせんの。ちゃんとお母さんの聞きよんなさるとに、あんたも聞かにゃ、御理解を頂かにゃいかんですよ言うたら、今度から聞き直すと言うて、帰られたんですけれども。ね。
そういう、例えば、んなら一つの霊力というでしょうか。そういう、ここに一つのお徳がある。お徳が籠もっておる。神様から直々に頂いたお話が、また、私の信心と一緒になって、そこに私の信心の度合いに応じての御理解が、教祖の神様のみ教えを、いよいよ深い深い、広い広いものにして行くのである。ね。
それを、その雰囲気だけでもおかげ頂くのである。それを聞いて分かって行じて行く所に、良い信心が育ってくるのである。ね。そこには教師もなからなければ信者もない。ね。弘子先生が言っております様に、ここの御理解は、ね。いわば、取次者が頂かなければならない御理解である。
もし合楽の御理解が世に出る事になったら、もうそれこそ、全教の者がびっくりするでしょうと言うております。自分が一年間本部で、みっちり勉強してきて、それを言うておる。ね。例えば、本当に合楽の御理解が、真意がです。れが全教一般に生まれたり、聞かれたりする様な時が参りましたら。全教の者が、それこそびっくりするだろう。
いうなら金光様の御信心がある意味合いに於て、新しい、斬新な、一変して行くお繰り合わせを頂いていけれるだろうと言う意味の事を、今日、色々話ておるのを聞かせて頂いてから、私もそうだと思うです。ね。やはり、それにはまず、ここで教えを頂いておる者自身自体がです。おかげを受けなければならない。ね。という事を強く今日は、感じたんですけれどもね。
どうぞひとつ、分かっても分からんででも、おかげ頂く。分かって行じれば、尚更有難い。それが金光教の信心で言うところの御理解だと思うですね。どうぞ。